気仙沼は今。

気仙沼へは、以前、「気仙沼スローフード」都市宣言について行政視察に出かけた事があります。
(行政視察の時の気仙沼)

気仙沼の豊富な海の幸をはじめとする「食」をキーワードとするまちづくりの取り組みについて勉強しましたが、震災後、テレビに映し出される気仙沼の港の映像を見ると、市役所を始め、その時立ち寄った場所が気になっていました。

やはり、港周辺の町並みはがらりと変わってしまっていました。
すでに,瓦礫は取り除かれ始め、道路も嵩上げされていますが、粉じんがひどい状況でした。
(津波はビルの2階まで達しています。市役所は高台にあります)

港より離れた市役所は高台にあり、大丈夫でありましたが、震災後の対応業務が増えたのか、空きビルを借りての増設がされていました。また、視察中食事を取った、フカヒレ寿司発祥の店,「あさひ寿司本店」は、津波により店内は改修不能状況となっていました。

気仙沼はフカヒレで有名ですが、津波は港にあったフカヒレ工場を根こそぎ、流してしまい、フカヒレの流通をマヒさせてしまいました。港には、いまだフカヒレが落ちている所もあります。フカヒレのまちとしてシンボル「シャークミュージアム」のサメに船が突っ込んでいました。

港に一番近いお酒屋さんでもあった、男山で有名な、「男山本店」の3階建ての建物でしたが、地震で壊れたのではなく、津波で一階が倒壊していました。昭和6年頃の建設で昭和初期の景観を現代まで伝えた木筋コンクリート造りの三階建てで、洗い出し仕上げの重厚な外壁とモダンな内部構造が特徴でもあり、平成15年1月に国の有形文化財の指定を受けています。お酒の工場はすでに再開しているそうですが、趣のある建物まで壊れてしまったのは残念です。

気仙沼の復興は、港の再生でもあると言われています。
日本一のカツオの水揚げを誇りますが、壊滅的な被害を受けてしまった港で、カツオ船を受け入れ地盤沈下してしまった市場を70センチ嵩上げして、6月初めより、市場が再開されカツオの水揚げが始まったそうです。現在、港には多くの漁船が停泊しています。

港付近の商店街は、壊滅的ですが、それでも、市場の近くでお土産を販売し始めている所がありました。いつまでも立ち止まっていられないそうです。
遅いお昼でしたが、港から離れた気仙沼駅近くのお店でカツオの刺身を頂きました。

戻りカツオではないので脂はのっていないと言っていましたが、ニンニクが利いて、おいしかったです。
未だ、地震はあり、復興を進めながらも不安は感じているそうです。少しでも早い復興を祈らずにはいられませんでした。

ちょっとオーバーワーク気味かな・・

ここの所、奥歯が痛いです。その成果、肩が張り、頭が痛いです。気候のせいもあるかもしれませんが、予定が過密すぎて、体が悲鳴をあげはじめています。

被災地から帰って来た後も、倫理法人会開設式典参加、沼津へ視察、心のネットワークの討論会参加、名古屋へ財政研修と休む暇が無く、ほとんど家にいることがありません。家には寝るのに帰ると言うような生活です。ブログも書かなかければと寝る時間も少なくなっています。今週末も予定がぎっしり、沼津へ事業仕訳の視察、総会、ソフトボール大会への参加。運動不足の上、睡眠不足気味でもあります。
サッカー選手の急性心筋梗塞も話題になっています。
無理はしないようにと思いながらも、無茶をしているような感じです。
気を付けなければと思いながらも、オーバーワーク気味です
体を壊して困るのは、自分ですからと思いながら・・ついつい予定を入れてしまいます。

沼津市の津波対策は?

静岡県下において、津波による最大の被害が想定されている沼津市で発行している東海地震における津波対策「地震・津波防災マニュアル」を基に、沼津市の津波対策状況を会派で視察してきました。

沼津市は、大規模地震対策特別措置法に基づき、昭和54年に地震対策特別強化地域に指定され、昭和55年に沼津市地域防災計画「東海地震対策編」を策定し東海地震対策を市の重要課題として取り組んでいます。

沼津市の「地震・津波防災マニュアル」の中には、避難路の整備、津波警告看板、避難経路図表示、避難誘導看板、海抜表示板の設置、津波避難タワー、津波避難協力ビル、その他に静岡県事業として沼津港航路水門「びゅうお」、多比地区防波堤の整備についても記載されておりそれをもとに確認してきました。

詳しい内容は、沼津市の発行の防災マニュアルに記載されていますが、今回、特に確認したかった津波タワーは、想定される津波高より、2メートル高く設計され、緊急的、一時的に津波から住民を守るよう、平成18年西浦立保地区の西浦保育園の横に、平成20年内浦重須地区、平成21年に西浦木負地区に設置されていますが、今後も津波タワーを付近に避難ビルが無く、津波避難経路を使用して、予想される津波到達地点までの距離がある地区を対象に随時設置されていくそうです

最後に、視察した沼津港大型展望水門、愛称「びゅうお」は大地震などにより発生する津波が沼津港の内港と外港を結ぶ航路から進入する事を防ぎ、津波から港の背後地の50ha、 9,000人の地域と人を守るために水門として完成しています。
津波をシャットアウトする扉は、幅40m、 高さ9.3m、重量は406tと日本最大級です。一般公開されている展望回廊には、入館料100円払えば両岸に設置した13人乗りのエレベーターにより昇ることができます。両岸の機械室の周囲を展望回廊がまわっていて、この展望回廊の床は、地上約30mです。両側の展望回廊を幅4m、長さ約30mの連絡橋がつないでいて、北には愛鷹山、富士山、南アルプスを望み、遠く清水まで見渡せます。また、箱根連山や沼津アルプスを見渡し、眼下には我入道海岸が広がり、その先に駿河湾に突き出した大瀬崎をくっきりと見ることができ、東西南北360度の展望を楽しめます。
それなりの津波対策は確認できましたが、東日本地震を見てくると現在の東海地震の第3次想定の対応施設では、今、求められている3連動を含む想定外の対応ができるのかは気になる所でもありました。

忘れてはいけない風景。

2011年3月11日、金曜日、午後2時46分震度7マグニチュード9の巨大地震は津波の高さは15メートルに達し、まちが消えました。死者、行方不明は6県合わせて2万8500人以上、忘れてはいけない事でもあります。

(仙台駅では、七夕祭り一色です)

そんな思いを持って、宮城三陸を中心に、個人的に被災地支援を兼ねた視察に行ってきました。被災地へは仙台から入りましたが、仙台市では、すでに震災の暗さは感じず、逆に、震災バブルなのか、(ホテル、飲食店は混んでいます)人、人でごった返していました。(実際、震災により、仙台市には人が被災場所からは基より、全国から集まってきているそうです)
とりあえず見てきた宮城三陸の被災地報告を簡単にすると、高速道路を石巻河南ICから下りて、しばらくは地震や津波の被害はありませんでしたが、石巻市役所周辺から様子が変わり始め、道路の陥没や家が壊れていたり、瓦礫が散乱しはじめました。観光地でもある松島でもそんなに大きな被害は確認できませんでしたので、思ったより大したことが無いのかも思っていたところ、ある地点からの海側は深刻な被害に変わっていきます。
(車は至る所で、転がっており、ビルの4階の上にも車がありました)

石巻でも南三陸でも気仙沼でも、海側の地域では、鉄骨だろうが車だろうが、見るも無残な姿が未だ確認できました。また、倒壊した建物の中でも、水産工場があったような付近は、何と表現したらいいのか分からないような、腐敗臭がし、さらには大量のハエが飛び回っています。
(瓦礫が山になっています)(未だ処理ができていない処も)[病院内の撤去作業)

一瞬で飲みこまれた津波の恐ろしさを、まざまざと目、鼻、耳で感じながら、すでに、道路や倒壊した建物の瓦礫は取り除かれた所が多いものの、南三陸町においての、何も残っていない風景は、戦争の経験こそありませんが、爆撃にあった後、焼け野原の映像をテレビで見た時の、終戦時の日本と変わらないのではと思いました。月日が過ぎようと、それは、忘れられない、忘れてはいけない風景でもありました。
その惨状の現場に立つと、5か月たった今も、復興にはどれだけかかるのか、私には検討もつきませんでした。
改めて被害に遭われた皆様には哀悼の意を申し上げます。
今後、自分なりの報告を、もう少し詳しく掲載するつもりでいます。

*深夜、家に着くと、いきなり震度4の地震があった事には驚きました。被災地を見てきたばかりなので、3連動の地震でなくて・・・良かったと胸をなでおろしました。

被災地視察支援

宮城三陸へ行ってきました。南三陸町では、5か月近くたっても、復旧のめどが立っていませんでした。

田宿川 たらい流し

恒例の田宿川たらい流し川祭りに参加し、たらいレースに参加しました。転覆することなく1番でゴール!!