河東一乱と須津地区の話しを聞く。

連休最終日、雨が降る寒い日でした。
出かけるのも嫌になるような天気でしたが、須津ふるさと愛好会の講演会「河東一乱と須津地区」に参加してきました。講師は富士山かぐや姫ミュージアムの杉山寛郎学芸員です。杉山学芸員は以前、須津まちづくりセンターの職員でもあった須津には縁の深い講師であります。

冒頭では須津古墳群について様々な取組みをしていますが、古墳以外にも須津は歴史が濃い地域であり、戦国時代の資料がたくさん残されており、特に須津は戦国時代の始まりの地であるとしていました。テーマの河東一乱とは河東(かとう)とは富士山の裾野に広がる富士川から黄瀬川の間の広大な土地で、この土地は戦国時代、甲斐武田氏、駿河今川氏、相模北条氏の国境となり幾度も紛争が繰り返され、一時は甲相駿(こうそうしゅん)三国同盟により仲良く分割されましたが、今川義元が桶狭間(おけはざま)で死ぬと、武田信玄と北条氏政の間で激しい抗争が繰り広げられました。北条氏政は同盟を結び、和議の結果、河東地域は北条氏から譲られ武田領になり、武田氏は河東地域を家臣に与え東泉院や須津八幡宮、吉原湊の矢部氏などの河東の有力者を保護しその権利を認めたとしています。その河東一乱においては須津地区との関係は深く、善得寺の前身は、須津にある天寧庵であり、中里八幡宮、多門坊、小麦石の小屋等々須津地区にあります。須津地区は戦国時代の重要な場面になった場所もある歴史的にも興味深い場所であります。


あらためて、戦国の舞台にあった地域に住んでいる事に地域の歴史を感じました。