私は25歳まで今の須津地域(増川)ではない場所に住んでいました。実は生まれも育ちも、須津ではなく、原田です。今でも前住んでいた住所を尋ねられれば、富士市原田1147と答えられますが、久しぶりに15日の金曜に生まれ育った場所へ行く事がありました。
と言うのも、生まれ育った場所の隣のおじさんが急に亡くなられたからです。隣のおじさんは荻野覚さんといいます。知っていらっしゃる方も多くいると思いますが、昨日も通夜に参列はしたのですが、通夜に行き驚いたのは、見た事のある人の多い事でした。荻野さんはかって市役所で総務部長を務めていました。その関係もあり、行政の方の関係者が多く参列していた為に、私も今、議員である以上、知った顔の方が多かった訳です。
荻野さんとは、私が25の時に、生まれ育った所を離れてからはお会いする機会がなかったのですが、15年位前に、荻野さんが商工会議所の専務に就任してから、JCや商工会議所の関係でお会いする機会が増えました。また、息子さんとは、幼馴染でもあり、後輩でもある為によく飲んだりもする事が近年ではあり、親子で交流があった間柄でもありました。
荻野さんは、子供の頃から顔を合わすと、声をかけてくれ、商工会議所の専務さんになってからは、
「お、丈仁君元気か、最近、頑張ってるな」
と言葉を掛けてくれました。また、議員になってから、お会いした時も、
「丈仁君頑張れよ、期待しているからな」
と常にがんばれ、がんばれと励ましの声をかけてくれました。
その荻野さんが商工会議所の専務を退いた後、体の調子が悪かったとは聞いていましたが、14日に突然お亡くなりになり、世話になった隣のおじさんという間柄としても、お悔やみをしに、久し振りに生れ育った場所へ行ったのです。
久しぶりに行った生まれた場所は、滝川が近くに流れ、私の住んでいた家はすでに引っ越しており、今では、水郷公園に変わっていました。その水郷公園の隣に荻野さんの家はあります。懐かしさはあったのですが、荻野さんが亡くなった事により、更に、昔、この場所で遊んでいた頃を思い出しました。
しかしながら、突然の訃報は寂しい限りです。
荻野覚さん安らかにお眠りください。
合掌。