忘れてはいけない風景。

2011年3月11日、金曜日、午後2時46分震度7マグニチュード9の巨大地震は津波の高さは15メートルに達し、まちが消えました。死者、行方不明は6県合わせて2万8500人以上、忘れてはいけない事でもあります。

(仙台駅では、七夕祭り一色です)

そんな思いを持って、宮城三陸を中心に、個人的に被災地支援を兼ねた視察に行ってきました。被災地へは仙台から入りましたが、仙台市では、すでに震災の暗さは感じず、逆に、震災バブルなのか、(ホテル、飲食店は混んでいます)人、人でごった返していました。(実際、震災により、仙台市には人が被災場所からは基より、全国から集まってきているそうです)
とりあえず見てきた宮城三陸の被災地報告を簡単にすると、高速道路を石巻河南ICから下りて、しばらくは地震や津波の被害はありませんでしたが、石巻市役所周辺から様子が変わり始め、道路の陥没や家が壊れていたり、瓦礫が散乱しはじめました。観光地でもある松島でもそんなに大きな被害は確認できませんでしたので、思ったより大したことが無いのかも思っていたところ、ある地点からの海側は深刻な被害に変わっていきます。
(車は至る所で、転がっており、ビルの4階の上にも車がありました)

石巻でも南三陸でも気仙沼でも、海側の地域では、鉄骨だろうが車だろうが、見るも無残な姿が未だ確認できました。また、倒壊した建物の中でも、水産工場があったような付近は、何と表現したらいいのか分からないような、腐敗臭がし、さらには大量のハエが飛び回っています。
(瓦礫が山になっています)(未だ処理ができていない処も)[病院内の撤去作業)

一瞬で飲みこまれた津波の恐ろしさを、まざまざと目、鼻、耳で感じながら、すでに、道路や倒壊した建物の瓦礫は取り除かれた所が多いものの、南三陸町においての、何も残っていない風景は、戦争の経験こそありませんが、爆撃にあった後、焼け野原の映像をテレビで見た時の、終戦時の日本と変わらないのではと思いました。月日が過ぎようと、それは、忘れられない、忘れてはいけない風景でもありました。
その惨状の現場に立つと、5か月たった今も、復興にはどれだけかかるのか、私には検討もつきませんでした。
改めて被害に遭われた皆様には哀悼の意を申し上げます。
今後、自分なりの報告を、もう少し詳しく掲載するつもりでいます。

*深夜、家に着くと、いきなり震度4の地震があった事には驚きました。被災地を見てきたばかりなので、3連動の地震でなくて・・・良かったと胸をなでおろしました。